自分とは何か

自分とは何か?

——ベンズの中心にある「一点」を探している
最近、やたらと自分にベクトルが向く。
だからこれは、その通過点としてのメモです。
僕は割と、何も考えずに生きてきた方だと思っています。
高校生のときにロボットや機械に憧れて、大学に入り、なんとなく遊び、なんとかなる精神で風のように生きてきた。
でも大学でふと気づくんですよね。
「これを一生やるのか?」って。
そこからマジックやイラスト、自分の“好き”に時間を使い始めて、実際にそれで生計が立つようになった。大学は辞めた。
そこからも、なんとかなる精神で突き進んできました。
でも最近、思うんです。
自分は本当の自分に、ずっと目を背けてきたんじゃないかと。

主観で生きてきたデザイン人生

僕は今、企業のMVV(Mission / Vision / Values)やコーポレートアイデンティティを設計する仕事をしています。
つまり「あなたは何者か?」を言語化する仕事です。
当然、自分にも問いが返ってくる。
「じゃあ、お前は何者なんだ?」
僕のデザインは、かなり主観的です。
自分の価値観、経験、アート性を前面に出す。だから尖る。ありきたりにはならない。
それは良いことでもあり、怖いことでもある。
デザインは主観と客観の間で成立する。
でも僕は主観が強い。
だからこそ、
「この主観の正体は何なのか?」
という問いにぶつかるんです。

自分がわからなくなった時期

この2〜3年、何度か自分がわからなくなった。
戦争が起きている。
世界は不安定。
自分がやっていることに意味はあるのか?
これを続けながら、僕は死ぬのか?
そんなことを本気で考えた時期がある。
そして、自分の嫌いな部分も直視することになった。
  • 爪の甘さ
  • ドーパミン設計された現代社会に揺さぶられる自分
  • 親から受け継いだ短気な性格
変えられない部分がある。
努力すれば変えられる部分もある。
でも「変えようとすること」に疲れる瞬間もある。
そのたびに、
自分との対話が増えていった。

唯識という考え方に出会う

僕はまだ勉強途中ですが、仏教の「唯識(ゆいしき)」という考え方に触れました。

唯識とは何か?

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  • *唯識(ゆいしき)**は、4〜5世紀ごろのインド仏教で体系化された思想で、「この世界は心の働きによって成立している」という立場を取ります。
外界が存在しない、という極端な話ではなく、
私たちが見ている世界は、常に“自分の意識を通した世界”でしかない
という考え方です。
つまり、
世界の見え方=自分の見え方。
この言葉が、刺さった。
世界が嫌いに見えるなら、
それは自分のフィルターを通した世界。
だったら、
「自分って何なんだ?」
という問いに戻らざるを得ない。

意識はどこにあるのか?

最近、すごく考えます。
意識ってどこにあるんだろう?
僕はときどき「おでこに自分がいる」感覚があります。
心と体が一致しない瞬間がある。
酔ったトイレで、鏡の自分に向かって「誰だ?」と問い続けたことがあります。
あれは危なかった。
本当にわからなくなった。
これがいわゆる ゲシュタルト崩壊 です。

ゲシュタルト崩壊とは?

同じ刺激を繰り返すことで、意味やまとまりが崩れる現象。
自分の顔すら、他人のように感じる。
そのとき思ったんです。
「じゃあ、普段“自分”だと思っているこの存在は、何で成立しているんだ?」

SNSの自分、恋人の前の自分、仕事の自分

SNSの自分は少し理想が混ざる。
仕事の自分は責任が混ざる。
恋人の前の自分は柔らかい。
でもどれも無理していない。
どれも本物。
つまり、自分は一枚岩じゃない。
コミュニティごとに、現れる自分が違う。
これは社会心理学でいう「多重自己(multiple self)」に近い概念です。
現代ではむしろ、一貫しすぎる方が不自然かもしれない。
僕はこれをベンズ(ベン図)構造だと思っています。

ベンズの中心にあるもの

たくさんの円がある。
  • SNSの自分
  • 仕事の自分
  • 恋人の前の自分
  • 家族の前の自分
  • 一人のときの自分
それぞれ違う。
でも全部が重なる中心点がある。
そこが「核」なんだと思う。
それは多分、
  • 美しいものを美しいと思う感覚
  • 物語を信じる感覚
  • 直感を大事にする姿勢
  • 尖りたい衝動
そういう“揺るがない反応”の部分。

近代的アイデンティティは崩れている

昔は「私はこれです」と言えた。
でも今は違う。
SNSがある。
コミュニティが複数ある。
人格は文脈ごとに切り替わる。
現代のアイデンティティは、
固定された一点ではなく、流動的なネットワークに近い。
でもその中心に、
必ず“消えない一点”がある。
今僕は、その一点を探している途中です。
まだ答えはない。
でも、
自分とは何か?
と問い続けている状態そのものが、
もうすでに「自分」なのかもしれない。

また数年後、この文章を読み返したら、
全然違うことを言っているかもしれません。
でもそれもまた、
その時の自分。
今はただ、
ベンズの中心を探している途中です。